てぃーだブログ › 鄭氏会 › 久米村、三十六姓豆知識 › 進貢 しんこう

2008年03月27日

進貢 しんこう

服属国が宗主国にたいして貢物を進献すること。
【明代】琉球に関する最初の記録は『明実録』にあり、それによれば1372年(洪武5)12月、太祖洪武帝が陽載をして琉球を招諭したのにたいし、<察度王は弟泰期らをして表を奉じて万物を貢し、洪武帝はこれに大統暦を賜い、織金文綺、沙羅各5匹、泰期等に文綺、沙羅襲衣を賜うこと差あり>と記している。これは進貢の名において貿易を営み、文化を輸入することであり、近代国家の支配と服属の関係とは異なるものであった。冊封体制下では、進貢の形式によらなければ、貿易が許されなかったからである。進貢船は福建に着いた年内に帰国する。その翌年、進貢使節が北京から福建に帰るのをまって、これを迎えるために派遣されるのが接貢で、その船を進貢船と呼ぶ。尚清王代に始まるとされるが『中山世譜』では、尚貞王代の1678年(康煕17)に始まるとしている。

【清代】薩摩支配下に入っても進貢は続いて行われたが、これは琉球が薩摩支配下に入っていることを厳重に隠匿したうえでおこなわれるものであった。(薩琉関係の隠匿)。薩摩は進貢貿易に参加するとともに、これを監督し、その資金である渡唐銀は双方で負担し、または貸し付け、進貢船には海賊に備えるために大小砲を貸与し、ときには抜荷監視のために薩史を琉装させて便乗させ、あるいは御糸荷として日本の貨物を委託販売させるなど、進貢貿易は薩摩の管轄するところとなった。そのために進貢貿易の失敗や、事故などにたいしても王府は責任を追求され、北谷・恵祖事件のように、薩摩の命によって処刑がおこなわれることもあった。進貢品の内容にも大きく変化がみられた。1666年(康煕5、尚質19)には、瑪璃、烏木などの10件は土産でないという理由で貢を免ぜられ、80年には、貢馬、糸烟螺衉(螺鈿)、茶鍾が免ぜられた。これ以後、進貢品は硫黄のほかには日本産が増加する。進貢の人員も明代は100人または150人と制限されたこともあるが<琉球国誠心にして進貢年久し>として200人に増加された。進貢は1874年(明治7)まで続けられた。
-沖縄大百科事典から引用ー


同じカテゴリー(久米村、三十六姓豆知識)の記事
進貢使  しんこうし
進貢使 しんこうし(2008-03-27 00:00)

冊封  さっぽう
冊封 さっぽう(2008-03-26 23:18)


この記事へのコメント
今日の沖縄タイムスに牡丹社事件の記事を読みましたが、この貢納船について私事で恐縮ですが、2年に1回だと推測されます、また注意事項等、66人のうち12人は中国系の人々が助けています。歴史を知る事は大切ですね。
Posted by チョコチップバニラチョコチップバニラ at 2016年07月27日 20:32
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。