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2008年03月26日

天妃廟 てんぴびょう

天妃宮ともいう。航海安全の守護女神として信仰される媽祖(天妃)を祠り、上下二廟があった上の天妃廟は現在の天妃小学校の地に、下の天妃廟は、西消防署付近にあったという。創建の年月は不明。「唐栄旧記全集」(『琉球国由来記』巻9)には、<下の天妃廟は歴年久し、幸に廟内に古板片が残り、それに永楽二十二年造の七字が書かれている。かつ鐘銘を見ると景泰丁丑年(景泰8)に鋳造とある。永楽二十二年から景泰丁丑年までおよそ24年である。すなわち建廟して後に鋳金するのが順序であり、これにより永楽年間(1403~24)に建廟されたのは疑いない>とある。また<上の天妃廟は、『遺老説伝』によれば下の天妃廟が建てられて後に建てられている。その鐘銘に景泰8年鋳造とあり両廟の建立は相近い>とある。1392年(察度43)に来琉した閔人三十六姓航海業者も多く、彼らが神像を捧持して来て、建廟したと考えられる。1880年(明治13)下の天妃廟の地に師範学校が設立されて神像は上の天妃廟に移され、さらに89年上の天妃廟の地にの小学校が設置されたので上下両天廟、及び併地の龍王殿、関帝廟の各神像は波上の天尊廟内内に遷された。天尊廟内は各神像が雑然と並べられ、足の踏み場もない状態となったため、社団法人久米崇聖会は、1928年(明治3)に天尊廟を新築して奉遷した。第二次大戦で焼失したが75年7月復興した。尚泰久王寄捨の梵鐘は、現在県立博物館に所蔵されている。

-沖縄大百科事典から引用ー  


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2008年03月26日

孔子廟 こうしびょう

1676年(尚貞8)、久米村に建てられた孔子および四配を祠る廟。


【民族】孔子祭祀は久米村の蔡堅が1610年(万暦38)に進貢使として中国に派遣されたとき山東省曲阜の聖廟を参拝し、そのおり孔子ならびに四配(顔子・曾子・子思子・孟子)の絵像を購い帰り、郷土の士大夫の家を輪番で奉安し、祭典をおこなったのが始まりである。1671年(康煕10)金正春が孔子廟建立の件を尚貞王に啓奏して許可を受け、72年に廟地を泉崎橋頭の久米村に選定してただちに着工し、74年建物が竣工。75年5月孔子および四配の聖像の塑像に着手し、76年1月完成。この年から毎年春秋2回、最初の丁の日に釈奠(セキテン)がおこなわれた。


正門には「至聖廟」の扁額が掲着され、俗に<チーシンブー>と呼ばれた。聖像製作者平田典通、絵師査秉徳(仲宗根親雲上)。第二次大戦で廟堂・聖像・蔵書などが灰燼に帰し、敷地は国道58号が貫通して37坪余を残すのみで、廟宇の建立が不可能となった。社団法人久米崇聖会では天尊廟敷地内(那覇市若狭)に廟地を選定して復興工事に着手し、1975年(昭和50年)1月25日に落成式と復興後第一回の釈奠の礼をおこなった。久米の孔子廟後地には、孔子銅像を建立(1975.1)し、孔子廟・明倫堂後の碑も建立されている。

-沖縄大百科事典から引用ー



社団法人久米崇聖会ホームページ(儒教、道教)
http://kumesouseikai.jp/index.php  


Posted by ひーじゃー at 22:38Comments(2)久米村人思想