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2008年03月26日

冊封体制 さっぽうたいせい

中国王朝と、その周辺の国々とのあいだの国際親善関係をあらわすことば。冊封体制自体は、もともと中国王朝の国内秩序であり、皇帝を頂点として、それと貴族や官僚とのあいだに形成される君臣関係の秩序である。それが周辺諸国とのあいだに形成され国内的秩序の外延部分として出現した。冊封体制は古代からあるが、明代以後もっとも明瞭にあらわれている。明の太祖洪武帝が即位すると、周辺諸国に招諭を出し、これによって臣として朝貢する国は、朝鮮・日本・琉球・ジャワ・シャム・三仏斉(パレンバン)・スマトラ・マラッカ・安南など10余国にのぼった。これらの国々は、明とのあいだに、冊封、進貢の関係をもち、中国王朝はこれらの国々が臣節をつくすことを期待し、臣節にそむくときは出師討伐がおこなわれることもあった。またこれらの国々が外国に侵略されるときは、宗主権を主張して抗議し、ときには軍隊を出動させて戦争に発展することもあった。 琉球は冊封を受けて進貢と貿易(進貢貿易)を許され、頒暦、留学生(官生)派遣などの文化上の利をうけた。けれども内政上に干渉をうけたことはなく、たんに文化的・経済的・儀礼的な関係にとどまった。琉球が薩摩に侵寇(薩摩侵入、1609)されたのちは、傍観したに過ぎず、明治の廃藩置県にも、たんに宗主権の主張にとどまった。このように中国王朝と体制内の国々との関係は一様でなく、それぞれ異なっていた。冊封体制は、要するに前近代的な中国王朝と周辺諸国家との国際親善関係である。したがって近代的な国家観、領土観にたつ近代国家の出現と進出によって、その朝貢国の多くは植民地化され、冊封体制は崩壊した。

-沖縄大百科事典から引用ー


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