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2011年08月07日

沖縄版一休さん、モーイ親方

モーイ親方は、実在する人物”伊野波盛平”のことである。唐名は毛克盛(首里毛氏8世)
1647(尚賢七)年に生まれる。父は24年間も三司官をつとめた伊野波親方盛紀で盛平は長男である。
1694(尚貞)年、47歳のとき三司官就任。彼は三司官就任前も就任後も政治力には、目を見張るものがあり、外交面でも、薩摩との親交に力を注ぎ活躍。世子尚純や世孫尚益の大親職もつとめたりして、内外の人望を集めたいへん優秀な人であった。ゆえに伝説になり沖縄芝居にも登場するのでしょう。


さて、私が小学校の時に見たモーイ親方の沖縄芝居の記憶をたどりながら書いてみます。
もちろん伝説・民話ですからおおげさに脚本されていたと思います。
子供ながらにこんなに頓知が利く人がいるのかと関心していた記憶があります。
以下に記します。


モーイが幼少のころ、『カンターモーイ(髪ボサボサ)、カンターモーイ(髪ボサボサ)』と友達にいわれ
それからモーイとあだ名を付けられました。髪がボサボサでいつも汚れて帰ってくる活発な子でした
ある日モーイが、片方に下駄、片方に草履を履いているのを友達が見てバカモーイ、バカモーイと
バカにされ、村中の笑いものになりました。心配した父親がお前はなぜ片方に下駄、片方に草履を履いているのだと尋ねると、『はい、下駄は父上に頂いた大切なもの、草履は母上から頂いた大切なものだから、どちらか一方を履くことはできません』、ばかもんと父にしかられますが、また翌日も平然と片方に下駄、片方に草履を履いているのです。父親は『どうしてこんなバカな子ができたんだろうね』となげいていました。だがモーイには秘密がありました。昼間はあいかわらずバカなそぶり、しかし明け方まだ暗いとき、屋根裏で毎日猛勉強をしているのです。誰にも勉強をする姿を見せたことがありません。そんな日が何年もたったある日、父親が仕事から帰ってくると、すごく達筆で書かれた漢文が、居間に落ちていました。父親は、これはすばらしい、さぞ名のある方が書いたものだろうとうなずいておりました。そこへモーイが帰ってきたのです。
『おいモーイよ、これを見てみたまえすばらし書だ。』『父上様それは、私が書いたものです。』というと『たわごとをいうなお前に書けるわけがない』と父は一喝しました。するとモーイは墨と筆を取り出し書いて見せたのです。『おお、ほんとうにお前が書いたのか、いいつの間に・・・』と、父は、泣いて喜
びました。それから数日後、父親がため息まじりで、しずんだ顔で帰ってきました。『どうされましたか?』モーイがたずねると、『お前には関係ない』とどなりました。『父上さま私は息子です家族ですよ、困ったことがあれば、家族には相談すのが筋ではないですか?』『それもそうだな、実は薩摩から今度の献上品で無理難題がきておるじゃ』『それはどのような品ですか?』『まず第1、雄鶏の卵、第2に琉球で一番大きい山、第3に灰で出来た縄、どれも不可能なものばかりどうしたものかなやんでおるのじゃ』モーイはしばらく考えると『父上様、私が解決致します私を薩摩へつかわして下さい』
『お前が、バカな』『父上様、私に妙案が御座います』というとモーイは父親に耳打ちします。
『うん、それはいいモーイよ父の代わりに行ってくれるか』『はい、喜んで』さっそく父親は首里城に
登り、モーイが薩摩への使いとしていけるよう便宜を図ります。そしていよいよ薩摩へ出航しました。
薩摩へ着いたモーイは、薩摩のお殿様の前に案内されました。『琉球から来た使者は、おぬしか?』
『はい、伊野波盛平と申します。』『こんな若造を送るとは琉球も落ちたものじゃのう』『して献上の品はもってきておろうな?』『殿様、若造の私が参りましたのは、実は分けが御座います。本来私の父
が参る予定で御座いましたが出立直前に産気付きまして、代わりに私が参ったのです。『なに、男
が産気付くとは、たわけたことを申すか』『その通りで御座います。雄鶏が卵を産むとはたわけたこと
で御座います』『ううん、これは一本とられたわ』『して琉球一の山はどうした?』『はい。それが琉球
一大きい山をもってこようとしたのですが、小国琉球では、山を乗せる程の船を作る技術がありませ
ん。大国の薩摩様であれば、このような大きい船もたやすく作れましょう薩摩様が船を作って頂ましたらすぐにでも山をお持ちいたします。『ううん、あっぱれじゃ、は、は、は、は、して灰の縄はどこか
な?』するとモーイが『例のものを此れへと部下に命じます』すると部下は、台の上に乗った普通の
縄をもってきました。『普通の縄ではないか?』殿様が言い終わるやいなやモーイは、縄に火を点けたのです一同のものは固唾を呑んで火を見つめます。そして火が燃え尽きると目の前には縄の形
を留めた灰が出来たのです。『これが灰の縄で御座います。』『は、は、は、は、あっぱれじゃ琉球
にもこのような頓知の利く知恵者がいたとは、いやはや実に愉快じゃそなたに褒美をつかわそう
なんでもいい、申してみよ』『殿様、私は何も欲しくありませんただ・・・』『ただなんじゃ』『いっときで
よろしいので、殿様のそのお座りの座にすわってみとう御座います』『なにー』家老たちが殺気立ちます。殿様が左手を横に上げ抑止します。『ここへ座りたいか、うん、うんよかろう』というと殿様は
上座から降ります。『さ、さ、すわるがよい』殿様に促されモーイは上座にすわりました。
『上から見るのは、とても気分がいいもので御座います』そして次にモーイが発した言葉に一同が
一瞬しーんとします。『ご家老此れへ』、家老は、モーイを睨みつけます、横から殿様が声を荒げます
『聞くのじゃ』『はは、』家老はモーイの前へ出ます。モーイは姿勢を正し改めてご家老に言いました
『ご家老』『はは、』『今琉球は、飢饉じゃ米も不作なのじゃ、税を軽減してやれ、そして今後米の
出来、不出来に応じ税を鑑みて収めさせるようにはからへ』『家老は、横の殿様の顔を覗います
殿様は、首を縦にふっていました。家老が答えます『はは、全て仰せのとおりに致します』
それを聞いてモーイは上座を降りました。『殿様、もう十分で御座います有難き幸せで御座いました。』殿様は、感心しきりで、モーイを褒め称えたのでした。


ちゃん、ちゃん おわり


追伸
私の記憶をたどって書きましたので、大筋はあっていると思いますが税の軽減命令のところは
よく覚えていないので脚色しました。





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Posted by ひーじゃー at 01:44│Comments(6)掲示板等
この記事へのコメント
この、話しは、長老から聞いた話しで、真実かわ、想像にまかせます!たいそう、美人な女が昔立派な城にとつぎました!しかし、沢山の女官の、嫌がらせにあい、ある島に流されました、しかし、その時には、すでにおお樣の子供をみごもっていました!おおきくなった子供は、男子は島をわたり、直接おお樣にあい、に行きました。いきさつを、聞いていた子供なぜ親を島に流したかと!そっちも唐芋を食べたら、おなら、へらないかと!それでは証拠を見せて見ろとおお樣は!おお樣の持ち物と証拠を見せたら自分の子供と知り、城のなかに入って行ったそうです!仁酒(泡盛)黄酒(しょうこうしゅ)それとも、山東省の青たおビールでも呑んだんですかね!
Posted by 香品茶 at 2014年12月06日 21:56
とても素晴らしい話しですよね!よこしまな心を持たない鄭氏義才の門中の士族にしか出来ない話しですね!とても良い気分になります!金のたて糸でおった錦の帯でもしめて自分もさらに心を磨きくなりました!有難い話しです!
Posted by 香品茶 at 2015年02月18日 12:18
ありがとう!モ―イ親方のDVD が販売されているみたいなので買って見てみます。なければ、金のエ―クで!め―ご―さ―!しますかね(笑)
Posted by 香品茶 at 2015年04月08日 21:12
さっそく、問い合わせや!探してみましたが!昔は確かにあったようですが!今はおいていない見たいです。インターネットが上手であれば探せたかも!コメントが見れただけで有難いです!く―さぬじぶん!うちな―芝居劇場よく、おば―と!まじゅん、良く色々なうちな―芝居見たものです!最近は少なく寂しいですね!
Posted by 香品茶 at 2015年04月09日 18:07
インターネットで検索したら、うちな―芝居モ―イ親方ありました。ありがとうございます!劇団群星の公演の様子で久しぶりに方言が懐かしく!
西原むに―!とは初めて聞いてしりました。小緑むに―とは聞いた事がありますが!方言は全てわかりました!やはり鄭氏義才門中会の方々は強く逞しく優しく、謙虚で、(ゆくしむに―)嘘つきいませんね。いっぺ―にふぇ―で―びたん!
Posted by 香品茶 at 2016年03月05日 22:20
あけましておめでとうごいます。謹んで新春の慶びを申し上げます。皆様が健康で幸多き年となるよう願っています。花開富貴!
Posted by チョコチップバニラチョコチップバニラ at 2017年01月07日 18:11
 
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