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2011年07月27日

クニンダ屋取(やーどぅい)

近世後期、貧窮士族が首里(中央)を出て地方へ都落ちし、人里離れた地に小屋掛けして荒蕪地を開墾し農業を営んだ。屋取は他地に宿るの意。居住人と呼ばれ寄り集まって集落を形成していった。屋取は、西暦1700年代より士族人口増加などで、仕官できない貧窮士族が田舎へと落ちのびていった。具志川間切(旧具志川市)は、模式的な屋取集落が散在する地域である。
なかでも我が郷の、旧具志川市字西原は、クニンダ屋取といわれた、私が幼少の頃は部落民の90%がクニンダ子孫でした、もともとクニンダより都落ちした人々が集落を形成してできた部落であったが現在の人口は、県内あちらこちらより入ってきた寄留民の方が上回って元々の部落民はおそらく半分以下だと思われる。我が村は、『具志川やっちー小』という言葉を産み出した部落でもある、これは、なりは百姓で帰農しているのに気概は、いつまでもサムレー(士族)の気概でいることへの皮肉った言葉である、やっちーという言葉は士族が兄を呼ぶとき使うことばで、日本風でいうと兄上と呼ぶようなものである、直訳すると『具志川兄上ちゃん』といったとこでしょう。
お百姓さんは兄のことを『やっちー』とはいわないのである。
当時は、地元民とはあまり仲が良くなかったようである。


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Posted by ひーじゃー at 03:56│Comments(4)掲示板等
この記事へのコメント
やはり、歴代宝案(永楽1424)からも読み取れるよう、困難時代を誇り高く生きぬいて来たからでわないでしょうかね!
Posted by 香品茶 at 2014年12月09日 22:43
やはり、久米村の士族は、よく理非をわきまえ志を高く持ち順風に帆を揚げ、パイオニアスピリッツにたけ勇気を持って進貢使節に乗り素晴らしいものを琉球にもたらしたと真っ直ぐに思うしだいであります!また危険もともなうためとても大変だったと思います!
Posted by 香品茶 at 2015年02月10日 23:12
一方な圧力がかかり、また名家、鄭氏義才に嫉妬(にたさ)する器の小さい人々など、熱くなってすみません。人知らずしてうらみず、16世紀後半海禁ゆるむ、また、14世紀~15世紀初頭、琉球国をささえるために首里へようしに行ってます。あまり系図にはのせませんが、長くなるのでまたかきます。
Posted by 香品茶 at 2015年03月09日 00:00
1609年島津侵攻の時当時琉球のある一部の人々はき今の京都に連れて行かれ恐い思いをしたそうです!その後、特に鄭氏義才系の人々はそれでも不屈の精神で生きぬいてきたと思われます!ちぶるが!あちりる前に話しはやめときます!常に平常心で冷静沈着でいたいものです!
Posted by 香品茶 at 2015年04月28日 22:55
 
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