14世紀頃、当時の『明』(現在の中国)国より久米三十六姓とよばれる職能集団が、
琉球と明との交流(進貢貿易)をになう人々として琉球へやってきた。
中国人は紀元前の昔から『姓(氏)+諱』という姓名と『号』(童名:通称で呼ぶ名)
の両方の名があった。当然、久米三十六姓もその子孫もそうであった。
いっぽう、その頃の琉球人は、名字は持たず『模都古(まとぅくぅ)』や『実達魯(みたる)』
など名しか持っていなかったが、このころ久米三十六姓の影響もあって、琉球の士族も
唐名を持つようになった。王は『尚』、その他『翁、馬、毛』などがる。
16世紀になって官位(官職)が確立されると、士族は、家名(やーんな)を持つようになる。
地頭職を賜ると同時に領地を賜る、総地頭と脇地頭があるが、総地頭はひと間切り、現代の
市町村、脇地頭は現代の部落・集落区、総地頭は王子、按司、多大な功績のある親方が
なり、親方クラスは、脇地頭、親雲上(ぺーくみー or ぺーちん)でも脇地頭がいた。
例えば小禄間切の大嶺部落の脇地頭に任命されたとしよう、するとその方は、大嶺親方とか
大嶺親雲上と呼ばれ、この大嶺が家名(やーんな)になるわけである。但し功績有無により
領地替えが発生するが、小禄間切の湖城部落に変わると湖城親方となり湖城が家名になる。
親子や兄弟でも領地が異なれば、家名も異なっていた。姓の歴史としては、1690年に『琉陽』に
姓を賜ったという記事がある。王族・士族は「姓(氏)+諱+家名+称号+名乗」という構成だった。
領地を持たない士族は、名島(なじま)という名目だけの領地名を賜り、家名とした。
領地がなくなった士族は過去の拝領していた土地を家名として使っている場合があり、
また、本家は領地があるけど、分家は領地がなく、そのため本家が拝領している地域名を
家名にする場合あった。
名乗(なのり)は日本風の名で、最初の一字の名乗頭(なのりがしら)は、姓ごとに漢字が決まっており、向氏(王家子孫)は、すべて最初に「朝」の一字が付いていた。
「姓(氏)+諱+家名+称号+名乗」の具体例
宜湾朝保の正式名
向有恒宜湾親方朝保(しょうゆうこうぎわんうぇかたちょうほ)
向 姓(氏)
有恒 諱 姓と諱を合わせて唐名(からな)
宜湾 家名、苗字
親方 称号、位階
朝保 名乗 家名と称号と名乗を合わせて大和名(やまとな)という。
なお、久米村(クニンダ)士族は名乗頭をもたない。例えば『鄭迵謝名親方利山』
「姓(氏)+諱+家名+称号+号(童名)」と一門が分かるようにと名乗というのは
もたないのである。クニンダは、姓(氏)名で門中を認識している。
さて時代が、明治に入り国民全て姓名をもつようにと決まり、あわてたのが百姓である。
士族は、家名がそのまま姓で名乗が名になったが、当時百姓はまだ名しか持っていない上に
読み書きが出来ないのがほとんどである。やはり地名を挙げるのがほとんどであるが、役所に
届けようにも、字が書けない字を書ける人に代筆をお願いして届け出たようである。
それでその当時のエピソードをひとつ挙げてみましょう。
ある集落で、地頭代(村の長)しか読み書きできる人がおらず、その方が名字を○○さんにして
提出した。すると、他の村人が、私も村の長殿と同じ名字でいいと村の長に代筆をお願いした。
すると私も、私もと名乗りでて、村のほとんどが○○さんになったという話があります。
それで沖縄のあちらこちらで、村の半数が同姓という集落があるわけです。