一般的に謝名親方は、鄭義才を祖とする直系で9世次男とされているが、
実は長男です。通常久米村人の最高官職は、三司官座敷(政治を司る三司官の
国議の場に列(座)することがれきる官職)までとなっています。謝名親方は、三司官
まで登りつめています。これは特例ですが、そのためには、久米村籍を首里籍
にうつさなければなりません。よって謝名親方は、家督を次男の鄭達に譲り、
首里の金城町に居を構えました。そして、運命の1611年9月19日を向かえる
ことになります。
薩摩は、謝名親方を処刑後執拗に、謝名親方に関するもの全て抹消します。
このとき謝名親方の家が二度焼き払われることになります。というのは、
薩摩の役人が謝名親方の家と間違い隣の家を焼き払ってしまったのです。
後にあらためて謝名親方の家を焼き払ったということです。
そして末弟の鄭週を捕らえる命令が下されます。鄭週は、捕らえられるより
先に百姓になりすまし、北中城に逃げていきそのまま百姓に身分を隠し
生き延びたということです。現在島袋姓がその末裔にあたるそうです。
なぜ次男の鄭達は、捕らわれず、3男の鄭週を捕らえようとしたのかなぞ
ですが、おそらく鄭週も官生になって国子監(明の最高学府)を出ています。
兄の謝名親方と同じように学識があるので兄と同じ徹を踏みかねないやからとして、
警戒、抹殺しようとしたのではないでしょうか。
それにしても薩摩の執拗な所業は、単にみせしめの為でしょうか?
いや、それ程、謝名親方という男を恐れていたのではないでしょうか?