鄭弘良 てい・こうりょう 生没年未詳

ひーじゃー

2008年03月25日 04:00

紫金大夫、久米村の鄭氏12世で、大嶺親方とよばれた。号は基橋。1678年(尚貞10)訓詁師、ついで、講解師となる。久米村では明倫堂ができる以前は天妃官を講堂として教育をおこない、官生として中国の国子監で学んできた者がこれにあたっていた。文理に精通する者を選んで専任の講解師、句読詳明なる者を選んで訓詁師とするようになったのは鄭弘良が初めてである。程順則が弘良を師として学んだのもこのころであろう。 96年には正義大夫として、耳目官の毛天相とともに進貢使となり、北京に行く。『 球陽 』によれば、そのとき土地君像(土帝君)を持ち帰り、これを大嶺村(現那覇市)ニ給し、村では、石堂を建て奉安したとある。1701年には、世子中城王子尚純の侍講となって、『 易経 』『 書経 』『 礼記 』を講じた。安里橋碑文(1677)の選者。

-沖縄大百科事典から引用ー

関連記事